小説
Returning Home
身形のいい男が、なんら特徴のないビルの上の空を眺めていた。彼の青いシャツは少ししわがあった。来ている紺のスーツは、やせた体にちょうどあっていた。首のまわりには紺のネクタイ。
一見、政府の公務員に見えなくもない。特に、彼は政府のビルの前に立っているのだから。しかし、直そうとした後がある跳ねている髪が少しそのイメージに違和感を与える。そして、ただ空を見上げながらタバコをすう彼の肩は、何かに不満げなように下がっていた。
加持リョージは、胸いっぱいにタバコの紫煙を吸い込んだ。親指でタバコをピンっとはねる。先についていた灰とまだ微かに赤く鈍く光っているものが地面に落ちる。紫煙が風に吹かれて周りを巻きながら消えていく。
ここへは、何度も足を運んだことがあった。が、いつもいつも楽しかったわけではない。人は普通、内政省に楽しみを求めない。
嘆息する。少量のタバコの煙が、空へと逃げ出す。
歯を噛み締める。さっさと終わらせたほうが楽か。
もう一回、長く吸い込む。肺に溜まったものを吐き出しながら、タバコの火をを足で踏み消す。
片手はポケットの中、もう片方はきついネクタイを弄りながら、ビルへと入っていった。
今回、内政長官は何の用事で自分を呼び出したのかを思い浮かべながら。
「リョージ君、君は近いうちにセカンド・チルドレンとエヴァ二号機と随伴してジオフロントへ赴くそうだね」
「はい、その通りです」
加持は、机の向こう側から階の周囲をまわる窓の外を眺めている内政長官の目を見ていた。長官は徐に窓のブラインドを閉じると、椅子に座った。長官を観察しながら、前回面と向かって話をしたときと比べてあまり変わっていないなと、どうでもいいようなことを思う。
長官は腕を組んで、ゆっくりと机の上に下ろした。
「君が碇ゲンドウに非常に高価なアーティファクトを渡す。私がそう思うにたる理由はあるかな?」
長官はすこし焦り気味にそう聞いてきた。
アダムを表すにはうまい言葉だ。
「はい」
簡潔に答える。
「なら、これが役に立つだろう」
一番上の段の引き出しから何かを取り出し、渡してくる。
「持っていきたまえ。なにかの役には立つだろう」
一枚のディスクだった。
取ろうと手を伸ばす。
「プロフィールに目を通せ。覚えろ。終わったら処理しろ」
中指と人差し指の間に挟んだディスクを上着のうちポケットにしまう。ポケットをポンポンと軽くたたき、立ち上がる。冷笑を浮かべながら、深くお辞儀する。
「わかりました。ありがとうございます」
ノートパソコンのディスプレイに映るディスクの中身から新たなフォルダを選択する。戸惑いながらも目に留まった、覚えのある名前が付けられた画像ファイルを開く。背をもたらせた椅子が小さく鳴る。口の一方に煙草をくわえながら、ネクタイを緩める。シャツの第一ボタンはすでに外してあった。
彼女のプロフィールがディスクの中に含まれているのは予測しておくべきことだった。碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、赤木リツコ、三人のチルドレン。彼らのプロフィールが会ったのだから、彼女のがあるのは当然。けれど、何故か彼女のプロフィールの存在は不意打ちだった。
ちっとも変わってないな。指で唇に触れ、笑みを浮かべる。
無精ひげが生えている顎をかきながら、表示されている写真を眺める。
二十代後半の女性の写真だった。いつもながらに綺麗な目。しかし、よく注意して見ると、目じりの所に小さな小さな皺ができたのが辛うじて分かる。髪は以前と同じく、しかし写真の中では洒落た黒いベレー帽で少し隠れていた。口元は前と同じ、惹かれる柔らかそうな唇。けれど、写真の中では数年前の記憶より硬かった。
この数年間は、葛城ミサトにとって、身体的な変化はあまり齎さなかったようだ。
目を閉じて、深い溜息を吐く。
彼女。彼女はいつも彼を翻弄した。講義をサボって遊びにいったときの眩しいほどの笑顔。しかしその笑顔は、彼女の父の記憶によって、簡単に顰め面に変わる。彼女の腕に抱かれるたびに感じた、何か遠いたびから帰ってきた安心感。浮気を何度しても許してくれた、あの心。彼女には何か…そう、なにか生き生きとしたものがあった。それが、惹きつけてやまなかった。
最期に会ったのはいつだったろう?たった数年のはずが、数世紀にも感じる。煙を深く吸い込みながらそんなことを考える。
彼女はどうしてるだろう。
何をしているのか。元気にしているか。胸元にある傷はまだあるのか。まだ、何もかもを忘れようとビールを酔いつぶれるまで飲んでいるのか。まだ、以前のようにキス――。
口元から煙草を取り、灰皿のふちに軽くたたく。小さな笑みが広がるのを自覚する。目を閉じ天井を向き明るい照明を受けながら、記憶が蘇る。
数年たって数々の女を挟んだ今でも思い出せる、いろんなことに自分でも驚く。何時でも何処でも、何をしていても、彼女のことを思い出していた。何故、他の女ではミサトのときのような幸福感を得られないのか。彼女を愛しているから?
笑う。
そんなこと、あるわけがない。誰も愛しない、そう誓った。裏切られて傷つけられる感情は受け入れない。もう傷つきたくなかった。傷つけられたくなかった。ミサトにも、ほかの誰にも。父の愛を拒絶されながら父を喪った彼女も、そう思うだろう。
ふと気がつくと、煙草はもう根元のほうまで火がきていた。そのまま、灰皿に落とす。紫煙が少し立ち上る。自分に向けた嘲笑の中で、苛立たしげに顔をこする。
疲れているだけだ。自分に言い聞かせる。そうすることで、さっきまでの思考を追い出す。
椅子から立ち上がる。迷いは無い。ノートのふたを閉める。ピッという音と共に省電力モードに切り替わった。ドアの辺りで振り向いて、閉じられたノートを見る。まだ、ミサトの写真が見えた。
自分の意図を隠しながら、十四歳の女の子をエヴァとアダムと共にジオフロントに送り届けるだけで、十分難しいだろう。けれど、ミサトから距離を保つのはもっと難しいに違いない。自分でもはっきりと分かっていた。一度ネルフ本部に足を踏み入れてしまったら、結果を顧みずに彼女を求めてしまう。
電気を消して、外に出る。ドアをカチャっと小さな音とともに閉めた。