小説

Beyond Words of a Royal Epitaph

至福を感じ、彼は顔を上げた。最も甘美なる香り、最も純粋な想い、その原始の鮮烈さ。彼女がいる。歪んだ笑みを浮かべながら、目の前に佇む天使へと手を伸ばす。彼女は天からの恵みなのだろうか?そうでない筈がない。そうでないと、こんな強烈な想いは生まれない。頭にかかる靄に目を顰める。彼女は何処へ?天使よ…。

眩い光の筋が目を焼く。目を硬く閉じ、小さな痛みを無視する。彼女を失うことに比べれば、こんな痛みはないに等しい…。

彼女はそこにいた。彼の指が必死になって彼女に縋りつく。消えてしまわないかという恐怖。こんな天使が存在するはずがない…ないのか?彼女のクスクスという笑いが空間を満たす。その美しい音色が耳に響く。存在するのだ。何せ、この人間でしかない彼の腕の中にいるのだから。

許しを与えない太陽の光に、俯く。眼下に広がる人の海の中に彼女の顔は見つからなかった。過度の期待だったかもしれない。彼は彼女を失ったのだから…。

液体のような彼女の唇が彼のものに零れる。彼女の魔法が彼の周りに広がり、くもの巣のように彼を魅了して離さない。彼は彼女が何をしているのかを知っていた。別に構わなかった。彼女は神々の欠片なのだ。その彼女に彼は選ばれ、使役されるのだ。それは誇りと思わずにはいられない。彼女の輝きに浴し、彼女の香りで息をする。

目の端から、彼の好敵の剣からきらりと反射する光が見える。武王の口から零れ出てくる言葉は、彼には何の意味も成さなかった。もう、如何でもよくなっていた…。

彼女の存在は、彼を神々と同席しているような錯覚に陥らせる。彼の召使、彼の客、彼の他の妻たち。それら全てが現実味を失っていく。彼の真実は彼女だけだった。彼女の髪が彼の頬を擽る。遠い星の息吹のように感じた。現実、けれどとても儚い。まるで、もっと欲しいという願いができることになる保証のように。

群衆が静かになると同時に、彼は目を閉じた。武王の演説は終わりを向かえ、彼は新しい王朝がすでに始まっているのだと知った。何だ?言い残すことはないかだと?彼の唇が笑みの形に変わる、けれど其処には笑いはない。言い残すことはない。もし言ったとしても、誰も真の意味を理解しないだろう…。

彼女が彼の魂を喰らっているのは、彼も感じていた。彼は自らを開き、彼女の宴を許した。全てが如何でもよくなっていた。彼女が彼と共にある。彼女が彼の客全てを惨殺しても、王の座が彼のものでないとしても、彼の体が彼女によって造りかえられたのだとしても、構わない。人間?神?悪魔?彼にとっては彼女は、彼が生きられるように世界を変えたもの、全てだった。

静かに、風の中のささやきのような武王の彼への別れの声が聞こえた。「すまないな」今度は、気持ちがこもった笑みを浮かべる。違う時間、違う場所でならもしかしたら、もしかしたら理解できる人が存在したのかもしれない…。

彼女の非人間的な瞳を覗くために彼が目線を上げる間に、彼女の魅了する微笑みが今一度彼の魂へと染みとおる。彼は息を止めて、彼女がその声で彼の心を奪うのを待っていた。「紂王さま~ん、これ、どう~?」見かけ上赤い彼女の目の奥に黒く縦に割れた金の瞳が、彼は見える。彼女の顔は悪戯好きな、雌狐に似合う笑みを保っていた。天使か悪魔か彼は判断できなかったが、彼にとっては彼女は完璧だった。

痛みは殆ど感じなかった。覚悟していただけに、驚いた。一回瞬きして、回転する視界に自分の体が地面へと崩れるのが写る。もう一回瞬きし、群集を眺める。笑みが浮かぶ。彼女は其処にいた。彼の愛しい天使。死の瞬間にも、彼女の美は彼を熱くさせた。死の瞬間にも、彼女の周りの強烈な空気が見える。まるで光の輪のよう。その光の輪は彼の視界を覆った。黒以外、全てがなくなるまで。市の瞬間にも、彼が彼女に囁ける言葉はずっと以前から変わらないもの。

「未だ貴方を愛している、妲己」

輝く破片が降りそそぐ中、紂王の魂が肉体を分解し、空へと続く旅をはじめる。妲己は目を閉じながら城門へと向かう。始めはこの催しに出席する気はなかった。彼は彼女の遊びの中で倒れた、ただの駒だったのだから。門のところで一度足を止める。沈黙の中で、空を見上げる。消えてゆく魂に儚く微笑んだ。

もしかしたら、知らないかもしれない。もしかしたら、始めから全て分かっていたのかもしれない。けれど…貴方は私の誘惑を超えて、純粋に私を愛してくれた。私は…

妲己は何も写らない空から目を下げ、城を去った。特徴は大きすぎるほろで隠しながら。彼女の外套が乾いた風になびく。朝歌を去る。歴史の欠片を置き去る。

私も貴方を愛していたわ、愚かな人間。

『ここに紂王は眠る。殷王朝の最後の王。永遠の安らぎが訪れるように』